松山記念館で原造翁の時代の風土と文化講演会/松山

松山(株)(松山信久社長・長野県上田市塩川5155)の創業者である松山原造氏と、2代目松山篤氏の業績を記念・顕彰する公益財団法人松山記念館(松山久理事長・長野県上田市塩川2874の)は10月24日、松山(株)の本社で第31回文化講演会を開催した(後援は上田市、上田市教育委員会)。
同記念館は、1985(昭和60)年に設立され、原造氏の偉業の数々と、後に松山犂として全国に普及した創業時の双用犂の開発に至るまでの資料を展示している。また、創業者の次世代育成の想いを実源するために、広く「食育」の活動を支援している。
文化講演会は重要行事の1つで、これまで30回開催されており、大学教授、試験場関係者などの学識経験者、農機メーカーのOBなどが講演している。
今回は、長野県立歴史館(千曲市屋代260の6)文献史料課・文化財指導主事の新井寛子氏が、「150年前の長野県~小県地域を中心に~」と題した講演を行った。
会の冒頭、松山理事長は「今回のテーマは150年前の長野県。松山(株)と松山記念館の礎を作った松山原造が生まれた年です。1875(明治8)年に生まれ、今年生誕150年となります。原造が生まれた時代の長野県は、どのような状態であったのかを探りたいと思います。双用犂の発明がベースとなり会社を興し、記念館が設立されました。どんな時代であっても偉大な発明や発見は、その人の才能や努力の賜物です。しかし、その人が生きた時代や風土の影響もあると思います。原造が生きた環境がどんな時代で、どんな風土であったのかを掘り下げていきたいと思い、今回の演題に至りました」と挨拶した。
続いて新井氏が講演を行った。
150年前の明治8(1875)年は、政治的・社会的な一大変革(明治維新)が行われ、近代天皇制の形成や日本資本主義社会の発展の出発点となった時期である。
当時、上田地域は小県(ちいさがた)と呼ばれ、養蚕業が盛んに行われており、明治期に入り、販路を国外、国内に見出したことにより同地域の発展を支える一大産業となった。同地域の輸送を担っていたのは、問屋や中馬(信濃で行われていた馬による荷物運送業)であり、明治期に入っても生産物の輸送を担っていた。
150年前の明治初期は、様々な面が一気に近代化した時期であるが、その大きな変革を可能にしたのは、近世社会からの制度や産業が受け皿となったためであると説明した。









